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  • 7月29日(木) ゲスト卓話「南極滞在記」

    職業奉仕委員長 村上 倫行

    4月に「南極便り前哨戦」ということで、環境保全委員会の卓話を行い、環境保全をテーマに卓話を行いました。そして今日は念願がかなって、息子を皆さんに紹介できるのを大変うれしく思います。今日の講師のプロフィールを紹介します。名前は村上祐資です。私の長男ですが、昭和53年7月24日生まれで、この24日で32歳になりました。独身でございますので、よろしくお願いします。生まれは北九州市の戸畑区で、私が会社員のときに住んでいたのですが、大変な水飢饉の時に生まれてきました。現在は横浜の菊名に住んでいます。職業は学生で、第50次日本南極地域探検隊に地圏部門の隊員として参加しました。2008年12月25日に出発し、2010年3月19日に帰国してきました。南極の昭和基地に滞在していたのは2010年2月までです。地震観測やGPS観測を行いました。政策・メディア修士、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程に復学しています。南極や宇宙空間など、極限環境下の建築デザイン、ヒューマンファクターを専門とし、昭和基地のグランドデザインに関する調査研究にも携わっていました。本人のブログ “Field Note from Antarctica”があります。「村上祐資」でも検索できますので、ご興味ありましたら、是非ご覧いただきたいと思います。私が感激したのは、写真がとても綺麗なところです。是非、ブログを見ていただけたらと思います。

    第50次日本南極地域観測隊員 村上 祐資 様

    本日はお招きいただきありがとうございます。たまにこのようにお話をさせていただく機会があるのですが、今日はそうそうたるメンバーの前なのと、家族の前ということで、若干やりにくい感じがするのですが、よろしくお願いします。

    自己紹介ですが、南極観測隊には越冬隊と夏隊というのがありますが、僕は越冬隊員として南極に行っておりました。南極に着くのは、12月や1月、日本では冬なのですが、南極は南半球ですのでちょうど夏の時期に到着します。夏の時期は白夜の季節で、ずっと日が出ていて全く沈まない日が2カ月くらい続きます。その白夜が終わる頃に、一緒に来た夏隊の人たちが船で帰り、僕たちは置いてきぼりになります。そうするうちに、徐々に夜が出てくるようになり、「極夜」と呼ばれるずっと夜の日が2ヶ月ぐらい続きます。その後、太陽が出てくるようになり、白夜がやってくると僕らのお迎えがやって来ます。ですので、夏隊は日帰り隊、僕たち越冬隊は1泊2日隊とも呼ばれ、ずいぶん長い1泊2日の旅を過ごしてきました。

    僕の向こうでの仕事は、地圏という部門の観測を担当していました。地圏というのは、分野で言うと地球物理と呼ばれる分野です。地球物理は、地球のプレートテクトニクスという言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、南極大陸がどのように動いているとかを調べたりしています。それをGPSとか、特殊な光、人工衛星などを使って観測します。僕自身は特に地圏を専門にずっとやっていた訳ではなくて、皆さんにはなじみがないかもしれませんが、極地建築という研究を専門でやっています。極地建築というのは、「極地」、たとえば南極であるとか、宇宙であるとか、人があまり住まないようなところの建物であったり、そこに住む人々の暮らしなどを研究しています。それでどうしても、自分も極地に行きたくて、4年くらい紆余曲折がありましたが、念願がかなって南極へ行くことができました。地圏の専門でない僕が南極へ行ったのは、個人的な理由としてはこのようなことだったのですが、隊の仕事としては宇宙飛行士の仕事に似ていますが、国内に地圏の専門の研究者がいて、どこどこに行ってこういうデータを取ってきてほしい、というように僕に指示がきまして、そうすると僕が、どこどこと言っても簡単に行けるところではないのですが、1週間くらいかけて雪上車で行って、当然車中泊やテント泊なのですが、データを取ってきます。そういう形で1年半南極で過ごしてきました。

    現在千歳にいて、北海道で山岳ガイドの仕事をしています。南極から帰ってきたときは14kg太って帰ってきたのですが、毎日30kgくらいの荷物を背負っていて、元に戻ってきたかなと思っています。この後は、富士山の山頂に行って、そこの測候所、現在は無人観測所になっているのですが、そこで3週間滞在し、居住性を調査してきます。それが終わった後は、ヒマラヤベースキャンプに行く予定にしており、ベースキャンプでどういう風に人が暮らしているのかを調査する予定になっています。

    昭和基地について

    昭和基地がどこにあるかというと、すごくアクセスしづらい所にあります。日本が南極観測を始めたのは戦後の復興期で、敗戦国ということもあり、南極の調査をしたいといっても良い場所を与えらませんでした。当時のアメリカの軍のレポートでは、昭和基地近辺は到達不可能と言われた場所でした。飛行機で行くには距離がありすぎるので、燃料の関係で現実的ではありません。船で行くとすると、この辺りは氷が非常に厚く、以前に日本の観測船がスタックしたということもあるくらい厳しいところです。

    昭和基地はあまり知られていないのですが、南極大陸上にあるわけではありません。東オングル島という島の上に建っています。オングルというのはノルウェー語で、ここら辺はノルウェーが領土権を主張している場所になります。南極観測が始まるようになって領土権は凍結になったのですが、地名だけはノルウェー語のままです。ちなみにオングルというのは、釣り針というという意味だそうです。僕らが観測に行く時は、ここを拠点にしていろいろなところへ行きますので、海の上を渡っていきます。海の上といっても凍っているので、雪上車で渡れます。

    第50次日本南極地域観測隊(JARE50)について

    僕らの隊は、英語で言うと Japanese Antarctic Research Expedition、頭文字を取ってJARE、第50次隊ですのでJARE50と言います。第50次隊という意味は、50回越冬隊の入れ替えをしたということです。ただ、南極観測自体が50年目だったのかというと、もう少し経っています。途中2年ばかり空白の期間がありましたので、南極の観測が始まってからは50数年経っています。今はちょうど51次隊が昭和基地に滞在していて、52次隊は11月に日本を出発します。

    昭和基地に降り立ったのは、2009年1月13日でした。実は、1月13日はタロ、ジロが見つかった日で、記念すべき日に到着できました。昭和基地を発ったのが2010年2月13日です。13ヶ月間、昭和基地で生活しました。僕らの隊が非常に特殊だったのは、日本の観測史上初めて、自国の砕氷船が無い中でのオペレーションを行ったことです。砕氷船というのは、氷を割って南極に物資を運ぶ船です。ニュースにもなったので、ご存知の方も多いと思いますが、以前の砕氷船も「しらせ」といっていたのですが、それが新しくなり新「しらせ」がこの間処女航海を済ませました。第51次隊を運んで、僕らをピックアップしたのが新「しらせ」です。旧「しらせ」は49次隊をピックアップして引退しましたので、僕らは乗っていく船が無いという状況でした。乗っていく船が無い理由は、国の予算がつかなかったという理由のようです。そこで、オーストラリアの砕氷船をチャーターして行きました。普段のように日本の船で行けるのであれば、物資も大量に運べます。また、日本の砕氷船は非常に能力が高いので、ほとんどの確率で接岸できます。ただ、オーストラリアの船はここら辺まで到達するには砕氷能力が弱いですので、物資も多く運べないし、場合によっては昭和基地に接岸できないので、最終的にはヘリを利用するということも頭にありました。ですので、例年だと12月の後半には南極に着いているのですが、僕らは遅くなって1月13日という珍しい時期に到着しました。

    どういう人たちが南極へ行っているのかというと、先ほど言ったように28名の越冬隊員と18名の夏隊員に分かれます。夏隊員は、例年ですと2ヶ月くらい昭和基地に滞在するのですが、50次隊の夏隊員は船の関係で僅か2週間で昭和基地を離れています。その短い2週間の間で、いろいろな建設作業などを行いました。船の能力の関係で夏隊の人数も少なく、例年ですと60名ほどいます。

    越冬隊の構成は、まず隊長がいます。後は10名の観測系の隊員がいて、ミッションとしては観測がメインとなります。僕もここにいます。その他の人たちは、設営、ロジスティックスを担当して、基地の維持管理や、人間のケア、食事などを担当しています。その設営の中で一番多いのは、機械系の隊員で6名います。例えば、昭和基地の発電機のメンテナンスですとか、電気関係のメンテナンスとかを担当しており、雪上車などのメーカーから来ている人もいます。また、昭和基地では通信が命綱になりますので、通信の隊員がいます。後は調理人が二人います。二人の医療隊員、つまりお医者さんもいます。また、環境保全といいまして、南極では全てのごみを持ち帰らなくてはいけないというルールになっていますので、ゴミの分別ですとか、焼却などの仕事を担当する隊員もいます。また、多目的アンテナ、つまり観測用のアンテナを維持管理している人もいます。また、昭和基地ではインターネットができるのですが、そのインターネットのLANの担当をしている隊員もいます。さらに、建築の担当がいて、昭和基地が風で壊れたりした時に修復を行ったりします。また、フィールドアシスタントという隊員がいます。これは、南極ならではの職業なのですが、南極での生活は危険が伴います。初期の調査隊の隊員は、研究者でありながらプライベートではヒマラヤに登るといったようにタフな研究者が多かったのですが、現在はそのような人材が育っていません。従って、あまり雪山のことを知らなかったりする観測隊員のサポートをする、山岳ガイドのような仕事をする隊員が一人来ています。それから、庶務といって国内と調整したり、輸送の仕切りをしたりなど、いろいろな調整をする役割の隊員がいます。

    観測のメンバーを詳しく話しますと、まずは気象庁から5名来ています。気象観測というのは、24時間365日、10分ごとの平均をとりながら観測をしますので、非常に人数が多いです。また、電離層と呼ばれる、宇宙に近い高層の部分に電波の関係で非常に重要な層があるのですが、その研究をしている担当が一人います。後、僕を含めて4名、国内の依頼を受けながら観測をする隊員がいます。僕は地圏の担当だったのですが、後はオーロラの担当が2人、大気の担当が1人となっています。

    国内の訓練・準備

    まずは国内の訓練の様子について説明しますと、南極隊員候補として選ばれると、冬訓練というものに駆り出されます。実は驚くべきことに、観測隊員に選ばれて冬訓練に来て初めて雪を見たという隊員もいるのです。まずは、雪に慣れること、また隊員同士の親睦を深めること、また座学になりますが、南極の危険や装備を知ることなどを目的とした訓練となります。訓練では、ルート工作訓練といって、全く道が無い所で安全なルートはどこかを探る訓練を行います。南極では、海の上などを雪上車で走る場合、当然道などはないので、ルート工作というのは非常に大事な作業となります。2月とはいえ、やはり南極と比べて温かいのですが、道なき道をスノーシューを履いて歩く訓練をします。また、レスキューの訓練もします。仮に誰かが動けなくなったときにどのように搬送するのかの訓練をします。また、ロープを使って、誰かがクレパスなどに落ちたというシチュエーションでの訓練もします。

    冬訓練が終わるとしばらく間があいて、7月に夏訓練を行います。この夏訓練の時期は正式に隊員が決まっていますので、いよいよこのメンバーで南極へ行くぞという訓練になります。夏訓練は座学が多いのですが、いよいよ直前なので細かい話、出発に向けたいろいろな作業の段取りを話し合って決めたり、こういう物が足りていないので調達しなくてはいけないなどの打ち合わせなども行います。南極に行くまで、隊員全員が集まる機会は限られているので、これは大事な訓練となります。また、消火器を使った消火訓練、救急救命の訓練なども行います。

    夏訓練が終わると、物資の調達が始まります。出発はクリスマスの頃なのですが、物資の調達は11月頭までに全部揃えておかなくてはいけないので、いろいろな調達作業を行います。築地に行って食材を調達していたときには、南極へ行くというと、あれもこれも持って行きなさいと言われ、マツタケも持って行きなさいと言われたのですが、南極では菌類・生き物の持ち込みが禁止されているのです。昔は、タロ、ジロのように生き物を連れていくことができたのですが、今はできません。従って、生のキノコはだめですので、残念ながらマツタケは断念しました。荷物を入れる段ボールには南極観測隊専用のものがあって、アザラシやペンギンの絵が描いてあります。南極では2000食くらいのフリーズドライの食品を持って行くのですが、調理期間はわずか4日間で、かなり大変でした。また、南極ではしょっぱい味付けにすると水が欲しくなるので、あまりしょっぱくないような味付けにします。また、注射の訓練もします。医者も南極には行くのですが、医者がすぐに駆けつけれない場合に備えて、簡単な手術くらいはできるように訓練します。消防署の人が来て消火の訓練もしました。また、理髪も自分たちでしなくてはいけないので、資生堂の美容学校へ行って訓練を受けました。

    南極へ向けて出発

    オーストラリアからは、オーロラ・オーストラリスという船で、フリーマントルという港から出発して、約2週間かけて南極へ向かいました。船の上では、プランクトンの採取など、観測を行いながら行きました。また、一般社会を離れたので髪形などを気にしなくて良いので、みんなでモヒカンにしたりなどもしました。南緯60度を越えると南極に入ったことになるのですが、その時には船からポセイドンが現れ、「南極に入りたければ、俺の足にキスをしろ」と言われて鮭の内臓とピーナッツバターとチョコレートなどを混ぜたものをかけられながら洗礼を受けました。昭和基地には、レスキュー用のスーツを着てヘリで入りました。

    南極へ到着すると、すぐに建設などの作業を行います。研究者、調理など本来の仕事に関係なく、建築の仕事をどんどんやりました。また、その間にもヘリで南極へ行って観測機器のメンテナンスなどを行いました。約2週間が過ぎると越冬交代式があり、前次隊と握手をし合いながら、昭和基地の看板の周りでささやかな儀式が行われます。越冬交代が終わると、夏隊ともお別れです。

    南極の様子

    海の上では安全かどうかチェックしながら渡ります。下が雪、その下が海が凍った氷なのですが、そこが潮汐の関係で割れたりすることがあるので、そこが安全かどうかゾンデ棒という棒を持って、突付きながら進みます。本当にひどいブリザードになると外出禁止令が出て、外に出ていけないというようになります。基地の前にはガイドロープが張ってあって、ホワイトアウトの時はこれを頼りに移動します。本当にひどいブリザードになると、手を伸ばすと肘から先が見えなくなりますので、野外でトイレに行くのも命がけになります。僕も周りがよく分からなくなった時があったのですが、そういう時は動かないことが得策です。風の息というのがあって、どんなに強いブリザードの時も一瞬だけ風が緩む時があります。その時に何か目標となる建物や山の陰影などが見えればそこを目標に動けば良いのです。

    ブリザードになると夜通し建物がガタガタ揺られます。その後には除雪が待っています。8mくらいの高さの高床式の建物も、1回のブリザードで全部埋まってしまうので、人力や重機を使ったりして除雪をします。僕らの南極滞在中は、過去最悪の積雪量を記録しましたので、除雪の思い出ばかりです。

    南極ではさえぎるものが無いので、常に風が流れています。大陸の真ん中が高気圧になっており、しかも低温ですので、そこで冷やされた重い空気が大陸の端に向かって下りてきます。「カタバ風」と呼ばれていて、常に強い風が吹いています。ちなみにカタバというのロシア語だそ うです。波が地面を這っていくようで、とても綺麗でした。

    南極では、燃料は基本的に軽油です。南極の気温でもドロドロにならないような軽油を使います。それを基地の中心部の建物では配管を使って、離れた建物ではドラム缶を使って運びます。また、南極では火災が起きると非常に危険なので、月に1回は消火訓練を行います。抜き打ちでいきなり、出火の合図があり自分の持ち場に走ります。最初はスタンバイするのに10分くらいかかりましたが、終盤には2、3分くらいで到着して、全員の安否を確認するというレベルまでになりました。

    たまに釣りもしました。昭和ギスという小ぶりの魚が釣れて、から揚げにするとおいしいです。もっと大物のライギョダマシという2mくらいの魚もいるのですが、簡単には釣れません。

    4月には南極流の花見を行いました。もちろん、南極では桜が咲きませんのでスクリーンにプロジェクターで桜の花を映して、わざわざ食堂にブルーシートを敷いて焼き鳥屋さんのような提灯を自分たちで作って行いました。

    極夜の時期になるとオーロラが見えます。オーロラは太陽活動によるのですが、僕らの年は、100年に1度くらいの見えない年で非常に残念でした。見えても、ちょっと白味がかかった感じでした。ちなみに18年後にもっとオーロラが見えない年がありますので、18年後にオーロラツアーに参加するのはやめた方がいいです。また、極夜の時期はお祭りをします。南極での正月みたいなもので、極夜の折り返しの時にミッド・ウィンターというお祭りをします。シェフは腕によりをかけて食事を作り、屋台も出たりします。また、他の国の基地とグリーティング・カードを交換します。冗談で「うちのディナーに来ないか」という招待状が来たりもするのですが、その基地まで行くのには1カ月くらいかかりますので、これは完全に冗談です。向こうでは、衆議院選挙の投票も行いました。ファックスで送りました。にわか選挙管理員が7・3分けにして、スーツを着ていました。ただし、足元は裸足でしたが。

    10月くらいになると、いよいよ春になってきます。春になると、動物が見れるようになります。息継ぎ穴の中からは、アザラシが気持ちいい表情で覗いています。彼らは、歯で穴を開けるようです。また、ペンギンも出てきます。ペンギンは腹ばいで動くと、非常に速いです。ペンギンの営巣地では、ペンギン同士が喧嘩していたりして、ペンギンの人間模様というか、ペンギン模様が現れていました。また、トウゾクカモメという、ペンギンのひななどをエサにする凶暴な鳥もいました。

    夏になるとお迎えのヘリがやってきます。夏といってもお正月ですので、おせちを作りました。この時期になってくると、ペンギンのひなが見られます。

    いよいよ最後の夏が過ぎると、昭和基地を離れ、しらせに乗って観測をしながら帰りました。

    南極生活を終えての感想

    最後に僕の感想を述べたいと思います。さきほど、ロータリーの例会の最初に、皆さんが「四つのテスト」を読み上げていたのを聞いていたのですが、これは非常に南極の生活に当てはまるとの印象を受けました。

    「真実かどうか」というのは、僕たちは1年間同じメンバーで過ごしますので、自分を装おうとしてもごまかしがききません。かえって自分を装うと辛くなってしまうので、全部さらけ出して素の付き合いをします。もちろん、それで「この人とは合わない」とか、逆に「この人は最高だ」という経験ができますが、常に素の状態で居ざるを得ない感じでした。

    「みんなに公平か」というのは、南極では実は僕が最年少だったのですが、基本的には隊長がトップで、その下はみんながヒラという関係になっています。逆に言うと、年齢も言い訳にできないですし、28人全員がそれぞれプロとして自分の仕事を全うしなくてはいけません。これは、公平でもあり、また非常に厳しいことでもあるという感じを受けました。

    「好意と友情」ということですが、これは非常に南極で感じたことです。南極では、「観測隊員でなければこういう人たちとは出会えなかった」というような人たちと長い時間をかけて、好意や友情を育みました。これは、自分が南極で得た一番の財産だと思っています。

    「みんなのためになるかどうか」ということは、南極ではそいういう思いで行動していないと、自分だけのためということで行動してしまうと何も成立しません。常に、みんなのため、自分のためと思いながら生活していました。

    また、ここにはないのですが、やはり「自然は大きい」というのを感じました。僕は南極で「あきらめる」ということを覚えたのですが、あきらめるというのは立ち向かう相手、つまり自然に対して見極める、投げ出してしまうのではなく、これ以上やると自分の身が危ないというところではあきらめて行動する、ということを覚えました。それくらい南極の自然は厳しいものでしたし、逆に温かいとも思いました。後は、太陽に生かされているということを感じました。人間は太陽のリズムに合わせて生きていると思いました。

    そして、もう1回南極へ行きたいと思っています。僕たちの28人の越冬隊員のうち10人くらい経験者がいて、彼らがいろいろなことを教えてくれました。僕にいろいろと教えてくれたものを、僕がバトンを受け継がなくてはいけない立場になったと思います。すごく成長させてもらったとの思いがありますので、恩返しをしたいと考えています。次に行く時は、南極は楽しいだけではなく、すごく厳しいということが分かっているのですが、それを踏まえた上でも、やはり恩返しをしにもう1回行きたいと考えています。

    謝辞

    会長 佐々木 金治郎

    村上様、どうもありがとうございました。我々の短い卓話の時間で全部を語るのは難しいかもしれませんが、また機会があれば貴重体験談をより詳しく聞かせていただきたいと思っています。また、本日はオープン例会としていろいろな方に来て聞いていただきました。私たちだけで聞くには大変もったいない話でしたので、また、このような良い機会があれば、皆様にも参加していただきたいと思います。