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  • 12月2日(木) 会員卓話「支店長の憂鬱」

    職業奉仕副委員長 敦賀 秀生

    幼少・学生時代の思い出

    私は昭和31年7月8日に北海道赤平市という炭鉱町で生まれました。当時は市内に10ヶ所以上の鉱山がありまして、人口も6万人くらいで、赤平が最も栄えた時代でした。また、当時はお金持ちを「百万長者」と言っていた時代で、百万円あれば家が一軒建てられた時代でした。父親は現在85歳、母親は83歳ですが、父親は炭鉱の鉱夫ではなくて病院の事務をしていました。穴に入らず事務をするということは、収入は大分違って安い給料で生活をしており、8人兄弟の長男ということで、祖父が倒れた後に兄弟の学費なども面倒を見ていました。母親は、心身障碍者の施設で仕事をしていました。お金のないときは、市立病院で血を買っていたので、両親が血を売ったお金でご飯を食べていたという記憶がいまだにあります。

    私の母の勤務の関係で、私自身も心身障碍者の施設で一緒に寝泊りをして生活をしていました。初恋もその当時で、年上の綺麗なお姉さんがいたのですが、小学生の私が何を言っても返事をしてくれないのです。子ども心に、自分は嫌われているのだと思っていたのですが、ある日ちょっと距離を置いてみていたところ、そのお姉さんが誰かと話をしているのですが、あー、うー、としか話が出来ない。聾唖(ろうあ)の方だったというのを遠目に見た時に、子ども心に神様はなんて残酷、不公平なのだろとと思いました。

    自分は絶対福祉の道へ進みたいということで、高校を出て仙台の東北福祉大学に進学しました。子どものころからやんちゃ過ぎて、当時は空手部に入っていたのですが、先輩の言うことを全然聞かず、7ヶ月で叩き出されて退学になってしまいました。その後、現在の札幌学院大学、当時の札幌商科大学に入学して卒業しました。

    拓銀への入行、再就職、そして札幌信用金庫へ

    昭和55年に北海道拓殖銀行に入行し、初任地が網走でした。折しも、拓銀が創立80周年で、当時の人事部長からは「お前たちはサービス採用だからな」ということを言われました。その200人のうちでも、2人だけ1回は採用されていないのです。そして、その2人に声がかかり、人事部長と面接し「拓銀に入ったら頑張れるか」と聞かれ、「頑張ります」と答えて採用された経緯があるのですが、そのうちの1人が私でした。その時は、えらく悔しい思いをし、「今に見ていろよ」との思いで、網走を振り出しに、函館、埼玉、東京、千葉、そして最後は根室で拓銀破綻の発表がありまして、それが平成9年の11月19日でした。そして、私は翌年の3月31日で、20年間勤めた拓銀を退職しました。

    そして、平成10年4月1日から、北海道光生舎という赤平にある心身障碍者の施設の母体となっている会社に就職しました。そこの会長は、私の母親が勤めていた施設の理事長で、破綻の発表があった次の日に直接私に電話をくれまして、「秀生君、私が拓銀に指名して雇用したいという話をするから、うちに来なさい」という話になったのです。破綻してから、最終的に整理がつくまで、拓銀行員に対する求人は約3000社くらいの求人があったのですが、破綻した次の日にいの一番に電話をくれて「うちに来い」というのに、あちこち回ってみてだめだったからお願いしますというのはないだろうと思い、次の日に「お世話になります」ということで、再就職を決めた経緯があります。その時に、管理課長という新しいポストを作ってくれまして、そこでは、人事、経理、総務、営業など、全部やらされました。そこでは、クリーニングの他に、マットなどのメンテナンスもやっていまして、代理店も持っていました。その代理店からのお金の不払いがあったので、何とか回収しようということで、暗がりに車を止めて、牛乳とパンをかじりながら、一晩張り込んで経営者をつかまえたという、金融機関にいてはできないような経験もしました。

    当時、直属の上司が、小樽のミツウマゴムの副社長からヘッドハンティングされて来ていた方で、ある日その上司から「20年間いた金融機関の経験を生かせる仕事がいいのではないか」ということで札信の求人広告が載った新聞を渡されたのですが、子どもの転校なども考えると、もう金融機関は結構ですと断りました。そして、ちょうど同じ日に家に帰ると、同じ新聞の求人広告の切り抜きを妻から渡され、札幌信用金庫で職員を募集しているから受けてみたらということでした。1日に違う人間から同じことを2回言われたら、もう一度挑戦しようかなという気になり、応募しました。

    当時は200人くらいの応募者があったようなのですが、最終面接で役員が集まっていて、真中に座っている一番偉そうな人から、「今回は、融資の開拓専門の契約社員を採用したい」との説明があり、「それなら初めから新聞にも書いてくれよ」と思いました。しかし、今さら契約社員と聞いても帰るわけにもいかなかったのですが、条件は毎年最低、新規の融資を10億円以上実行して、それを3年間継続したら正職員になる途もあるかもしれないという厳しいものでした。

    病気の経験

    その厳しい条件を何とかクリアして職員になったという経緯があるのですが、勤務をしてちょうど10カ月後の9月の三連休のことでした。苫小牧で釣りをしていて、激しい腹痛を覚え家に帰ったのですが、翌日になっても全然痛みが治まらないのでタクシーで病院へ運ばれていったら、緊急手術ということになりました。理由は全く分かりませんが、ばっさり切られました。こちらは、請負で仕事をしていますので、入院をしていて実績が上がらないとクビになってしまいます。ちょうどその時、大きな案件がありまして、その条件が合うか合わないかというところだったので、いろいろ体中にチューブが入っている状態で、女房に言って建設会社の担当役員を呼んでもらい、「このような状況になってしまったが、条件の半分については必ず自分の上司を説得するので、何とか検討してくれ」と頼んだところ、「お前、馬鹿か。お前の言うことは何でも聞くから、とにかく体を治せ」と言われました。その時は、まだ病名を知らなかったものですから、「病気をして手術をしてラッキーだった」と思っていたくらいでした。

    それから、1週間後くらいに組織検査の結果が出まして、ステージ3の大腸がんということでした。いとも簡単に告知をされました。分かりましたと言って、病室に戻りベッドの上に座ったのですが、42歳になる男の目からこんなに涙が出てくるのかと思うくらい、涙が出てきました。それは今思うと、自分が死ぬかもしれないという怖さではありませんでした。当時長男が小学校、娘が幼稚園、そして一番下の息子が乳幼児ということで、この子どもを3人残して自分は死んでしまうのか、つまり自分の死の恐怖ではなく、残された子供たちがどのようにして生活していくのかということを考えて涙が出たのでした。それから4年間くらいは、浸潤性といってがん組織が飛び散る性質のがんだったものですから、いつ再発、転移するか分からない状態でした。ですから、その4年間くらいは、加害者には申し訳ないが、交通事故で死んでしまい保険金でも出れば、家族の生活費と子どもの学費くらい出るのではないかと、ずっと考えて暮らしていました。

    しかし、人というのは結構強くて、4年間も死にたい、死にたいと思っていると、そのうち慣れてくるのです。死にたいと思っていたのが、どうせ死ぬ時は死ぬのだからという居直りの気持ちになるまで4年間の月日がかかったのです。そうなってみると自分の心の中に大きな変化がありました。退院した後、1週間くらい経って、家内とスーパーに言った時のことです。普通はお父さんたちはいない時間なのですが、そういう時に奥さん方と一緒に買い物をしている男性を見ると、「ちょっと待てよ、あの人も大きな病気をしたのか、それとも会社が倒産してリストラにあったのか、それとも会社の経営が困難になって困っているのでないか」と勝手な思い込みなのですが、自分の思い込みの中で、他の方が人生で抱えている悲しみの様なものが、すっと自分の胸の中に入ってくるようになったのです。例えば、融資の申し込みが来た時に、その経営者の方の後ろにいる社員の方、そしてその家族の方の顔まで見えてくるのです。見えてくるというのか、それとも見ようとするようになったということでしょうか。

    手術をした状態の中で次の日に融資の話をしていて、「俺は何をしているのだろう、ここまでやるのか」と思ったのですが、自分にとって仕事は何かということが、42年間かけてようやく分かった瞬間でした。その時から、本当の意味での札幌信用金庫の職員としての生活が始まったように思います。拓銀の破たん、2回の転職、病気、一時的とはいえ死ぬことを望みながら生活した中で、何とか生き返って、こうしたお話を皆さんに出来るようになるところまでようやくきたのだと思っています。

    支店長の憂鬱

    支店長の重要な仕事は2つあり、まずは当然「支店の業績の伸展」です。もう1つは、私はこれさえできれば、業績の伸展は簡単にできると思っているのですが、「人財の育成」です。人が材料と書く人材ではなく、人が財産と書く人財を支店長としてどう実現していくのかということです。これは、私だけではなく、各金融機関の支店長さんも同じ悩みを持っていると思うのですが、やはりこの人財育成ということの難しさを感じています。これは、毎年入庫してくる若い方にやる気が無い、才能が無いということでないのです。それを指導していく資質を持った人間が、どんどん少なくなっていっているということです。このことは金融機関の質の問題につながってきます。

    人事研修をたまに見に行くと、うちの職員の中である程度の立場にある人間が講師として話をするのですが、全部テキストに書いていることなのです。どこの誰かがこういう事をしました、どこの誰かがこういう事を言っていました、ということばかりです。自分がお客様と関わって、感動したり、涙したりして培ったものが無いのです。また、様々な金融商品が出てきており、資格試験を受けなくていはいけない。勉強すること、自己啓発ということは、ものすごく大事なことなのですが、若い職員がお客様のことを考える前に、資格を取ってさえいれば営業の成績がよほど悪くない限り昇給・昇格していくので、自分のことしか考えないようになる訳です。そうなると、お客様の支持が得られなくなってしまいます。お客様不在の金融機関というのは、吸収される側、合併される側ということで消えてしまうのだと思います。

    金融機関の人間というのは、仕事を通じてお客様と出会い、先輩・上司よりもお客様を通じて育ててもらうという機会が本来は多いのです。私は拓銀時代、上司にこのように言われました。「勇気を持って一見『無駄』に見えることに、誠意を持って取り組みなさい。そして、金融という仕事を通じてお客様の人生の疑似体験をしなさい。絶えず、お客様の立場に立ってものを考えること。お客様のお話を聞いて涙を流せる男になれ。そうしたら、後から業績はついてくる」。30歳くらいの時にこのように言われ、いまだに自分は一番大事なことだと思っています。それを、うちの支店として実現したいと思っています。憂鬱の一番の根本は何かというと、そのように自力で学んできたことを、金融機関の体制の中でどうやって後輩に伝えていくかということなのです。金庫の宝として、財産としてどうやって残していくかということを考えた時に、いろいろな制約があり、憂鬱になってしまうのです。

    我々金融機関は、生産手段を持っておりません。ご融資をするということで、お客様に信用を付与するということはあるのですが、実際に自分で形あることが出来ないのです。ただ、10人の企業経営者の方がいて、10の事業計画があって、それが全部うまくいったら、たった1人で10通りの夢が見られるのです。10通りの喜びを味わえるのです。この分については、金融機関は素晴らしい仕事だと思っています。それが故に、金融機関は体の中でいえば、血管だ、血液だ、ということを言われます。だから、金融機関の人間は、いろいろなことをもっともっと知っていなくてはいけない。ただし、その知っておかなければいけない中身というのは、各業界の専門知識ということではありません。お客様ですとか、企業経営者の方が毎日の仕事をしながら、何を思っていて何を感じているか、それをもっと分からなければいけない。そうでなければ、本当にお客様の期待に応えるということはできないということを日々感じている次第です。

    特に信用金庫というのは、一般の銀行と比べると、もっと身近にお客さんの顔を見ながら、同じ視線の高さで一緒に共同作業をしていける金融機関です。同じ位置に立ち、同じ目線で、同じ方向を見ていけるのです。ただ、最近思うのは、金融機関があって、お客様がいて、平行線ではまずいので、ちょっと角度をつけた上で同じ方向を見る、そうすると線と線がぶつかるところに点が出来るのですが、その点の中に金融機関の我々がどういう理念を込めているか。ちょっと最近の金融機関の目線の位置、立つ位置に、狂いが出てきているのではないかという気がしています。この難しい時代を迎えた中で、金融機関としてもう一度勇気を持って、自分の足元を見て、自分の立つ位置とどこに視線を向けたら良いのかということを、考え直さなくてはいけない時代に来ているのではないかと思います。